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思考する生活 Life of Thinking 第三回目『石の上に3年も座っていられないのでとっとと逃げよう』

石の上にも3年、という諺がある。どんなことでも3年間は我慢して過ごそう、そうすれば、未来の光が見えてくる、人はある程度の期間の忍耐と我慢が必要なのだ。
なんともありがたい人生訓である。

私は今この文章をおしゃれなコンクリート打ちっぱなしのカフェで書いているのであるが、このカフェは座席までもがコンクリート打ちっぱなしの石なのである。既に15分ほど経過したが、腰へジワリと鈍痛が押し寄せて来た。こんなところに3年も居続けたら私の腰は砕けてしまい、歩くことさえ出来なくなってしまうに違いない。早速、席の変更を店員さんにお願いした。そう、石の上に3年いても身体を壊すだけなのだ。

最近は転職が珍しい事ではなくなり、今の職場が自分に合わない、違和感を感じた、と思ったら即、その場を去って次のステージを見つける20代、30代のビジネスパーソンが多いように見受けられる。これは至って健全なことだと思う。
しかしながら、ほんの少しばかり昔の平成時代はこの限りではなかったのだ。

私が社会人になった時はすでに平成時代に入っていたが、昭和カルチャーを色濃く引きづっていた。
私が新卒で入った会社で最初に配属された部署は希望どおりの企画・マーケティング部門であった。
多少の不満があったものの、仕事はとても楽しかった。
しかし、この会社はウチにも外にも営業力が売りの会社であったので、男子たるもの一度は営業に従事すべし、という暗黙の掟があり私も数年後に営業部門に異動となった。
営業といっても色々な営業職があるが私が配属されたそれは地場の不動産会社をまわって不動産の広告を取ってくるものであった。
配属初日に営業課長である上司から個室に呼び出され、腕時計を注意された。当時、私がしていた時計はスオッチというデザイン性の高いものであった。(確か時計のベルトは半透明のグリーンだった。)他に腕時計を持っていなかった私は注意された当日の夜に家電量販店で、誰も文句が付けられないごくごく一般的な腕時計を購入した。

初日から大きな不安と嫌な予感がしたが、それは翌日から現実となった。そして1ヶ月もするとこの営業という職種が私に合わないことを体現したのである。
仕事が全く楽しくないのである。好きこそものの上手なれ、のまさに反対である。

私はどうしたかというと営業に出かけるフリをして図書館で一日中本を読み漁ったり、喫茶店に入り浸ったりを繰り返す日々が続いた。当たり前であるが、営業成績はどん底である。営業一筋である当時の上司は私がサボりまくっていた事など気付かないわけがあるまい。
そして、半年後にボーナス査定の面談があった。
査定の点数が悪いのは想定内であったのだが、そこで言われた言葉が
“営業を出来ないものは何をやってもダメ、営業で良い成績を出したら次のステップへの選択権を得られる”であった。
多少はカチン、ときたが私は上司の言葉を以下のように解釈をした。
“営業で良い成績が出せるようになれば、営業から出られ、もとの企画部門に戻れる”
それから私は受験勉強のようにがむしゃらに営業成績を上げるための創意工夫と努力をした。

そして半年が経ち、まずまずの営業成績を残し上司との面談の場を迎えた。
上司の口から出た言葉は “次の半年間こそ真価が問われる”であった。
私の脳内は以下のことばがループした。
『営業で結果を残したんだから、異動させてくれるんじゃなかったの!?また同じ事を
繰り返すの?』
この面談の場を境に私の仕事に対するモチベーションは地の底へと落ちたのであった。

当時の私がいた会社では半年に一度、異動申請の制度があり、わたしは事あるごとに企画部門への異動希望を出していた。
しかしながら、異動はするものの同じ不動産広告の営業部門ばかりであった。
つまりたらい回しである。
そして気づくと5年半が経っていた。
私は、 “石の上にも3年”をほぼふた回りもしてしまったのだ。
その間、営業職に対するアレルギー症状を抱えていたままであった。

私はこのままではさすがに人生、マズい、と思い、当時の上司や人事部に異動の相談を持ちかけるものの返ってくる言葉は、「今のポジションでベストを尽くしなさい、、」であった。
このまま正攻法では現状から脱出出来ないと判断し、とある奇策を企てた。

それは企画部門の担当役員に直接アプローチをする事であった。
単なる異動お願い、だけではどうにもならないのは社会人経験10年ほどの身としてなんとなくわかっていたので、企画を立てプレゼンテーションすることにした。
もし、この作戦が失敗に終わったら会社を去って転職をしようとも決意した。
私は三日三晩ほぼ徹夜で企画書を仕上げ、幸運にも役員が時間を設けてくれてプレゼンテーションを実施することが出来た。

そして、1ヶ月が過ぎ、企画部門への異動の内示を受けた。
私は6年ぶりに企画部門に戻ってこれた。
この当時の私の心持ちは、ただただほっとした、の一言である。

数年前に「逃げるは恥だが役に立つ」というタイトルの人気ドラマがあった。
こちらはもともと、ハンガリーのことわざで、いま自分がいる場所、置かれている状況にしがみつく必要など無い、今すぐにでも自分の得意なことが活かせる場所へ逃げよう、そして「自分の戦う場所を選ぼう」というものだ。

さて、冒頭で私は以下のように述べた。
“最近は転職が珍しい事ではなくなり、今の職場が自分に合わない、違和感を感じた、と思ったら即、その場を去って次のステージを見つける20代、30代のビジネスパーソンが多いように見受けられる。これは至って健全なことだと思う。”

そう、自分の事は自分が一番よくわかるし、自分の直感や自身の内なる声に従う状態こそが一番、健全なのである。
なぜ、多くの指導的な立場にいる人達は、その人の長所を伸ばそうとせず、欠点を直そうとし改善ばかりを促すのだろうか?
なぜ、その人の興味のあること、得意なこと、を尊重しないのであろうか?

そのような人が周りにいたら、すぐに逃げようではないか!

失敬、このコラムをお読みの方々はすでに、自分の場所を見つけていると思う。
であれば、脱出の手伝いをしてあげて仲間に入れよう。

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